|
2011年 12月 21日
あれはなんだったんだろう。 たしかに何かを問いかけられた。そんな気がするのに。 どうしてかそれを思い出す気にはなれない。 それは映画のように観賞するためのもので、 参加するものではない。 でも試されている気分になった。 悲しいのか楽しいのか解らなくなった。 悲しみに慣れたとき、悲しいフリをし、 善悪が、崩壊しそうな恐怖でテレビを消しただろう? 慣れて冷める。そして疲れる。 名簿には手がかりなんて何も書かれていない。 膨大な死体の写真。DNAを預けて帰る。 線量計のたてる雑音。 不確かな言葉と情報の氾濫の中で、 その音の確かさは皮肉なぬくもりですらある。 唯一、まぎれもない真実の音がした。 1000年後に生まれ変わってもたぶん忘れられない。 でも、生きている限り忘れていくのだ。 すぐそばの絶望に妥協するのだ。 消滅していく言語となって過去は幻想的に点滅するのだ。 すでに、思い返せば闇も静まり返って。 あれはなんだったんだろうと。 # by dayz0411 | 2011-12-21 08:21
2010年 11月 14日
よくある完璧な愛情に包まれてよくある完璧なぬくもりで ささやかと呼ばれる幸福にあふれた嘘くさい家。 文字通りの意味において、 世界と他人をついに愛さなかった両親が、なぜ? 自分の子供をあんなに愛せたのか、人をまったく愛せない人たちが どうして僕のことだけを愛せたのか疑問だった。 だからその愛情が、 世の中で最も尊く、最も強く、最も許される愛であるのが、 僕にはずっとたまらなかった。 大人の愛情と同じだけ子供は大人を憎むので、 残酷で無邪気な笑顔を武器に少年少女は心の中に広がっていく 真っ暗闇と踊る。自分以外の何者も愛さない大人をあざ笑う。 だから家庭のぬくもりや家族の素晴らしさを聞かされると いつもぎこちない気分になった。幸せの絶頂期において、 ほぼ愛情について述べられるその見解が、自己保存の本能の 域を出ていないその愛し方が、まるで愛情の真理のように、 あっさりと愛について何もかもわかりました、みたいに 語られる場面ではいつもぎこちない気分になった。 恵まれたり獲得したりの瞬間に悟った真理にどんな客観性が あるかといえば微塵もないに決まってる。 だって、それは愛情というよりも暴力的な嘘なんだもんな。 うさぎは炎に飛び込んだ。 でも、その愛情の世界観の前に君は立ちふさがり、 ぎこちない愛情を捧げる。奪われて怒り狂う世界標準をよそに、 許そうとする君の愛情に僕は戸惑い狼狽する。 社会はそうはいかないよ。この理論的に整理され選びやすい 通し番号つきのカタログみたいな優しさのバリエーションは、 共有可能な限界点としてはよく頑張っているほうなんだ。 それは何より自分を守ることを最優先に許すシステムで出来ているんだ。 それは愛情なのかと子供は問いかけ、それが愛情なんだと大人が 解らせようとする。広がる世界を愛そうとする少年少女よ 世界の方はあんまり君たちを愛してくれはしないよ。 君たちを愛するのはたぶんお父さんとお母さんだけなんだよ。 はっはっはっは。そうやって両親は世界を遠ざけた。 世界が肯定するそんな優しさに包まれて 真っ暗闇で踊る子供のこころに荒ぶ風の匂い。 その匂いに慣れる頃には誰もかれもが孤独になってく。 ぎこちない愛情でぎこちなく育てられた君のぎこちない愛情が、 同情を求めて宙をさまよう瞳の、 ぼやけた焦点に、ぼんやり映った夜の、雨みたいに。 # by dayz0411 | 2010-11-14 04:17
2010年 11月 09日
![]() 君を傷つける言葉なら、腐るほど。 気休めの正論なら腐るほど持っているのに、 君を救い出せる言葉が一個も出てこない。 だから何も言えず、深く関わらず ふかーくふかーく寂しさの海の底では 自分の寂しさを紛らわす言葉もまるで思いつかない。 数多の表現から恥も外聞もなく、 優しげに響く言葉をいくつか見繕い、 すべての歌とすべての本の中から いくつか見繕って声に出すたびに、 余計に凍える心が今にも砕けちってしまいそうな、 そんな夕暮れ。 君を傷つける言葉なら腐るほど持っているのに、 君を救い出せる言葉が一個も出てこない。 どんなに優しいささやきも、 どんな感謝の言葉ですらも、 複雑に気持ちの裏側を読み解こうとする 信頼の欠如した世界ではまったく何の役にも立たず、 連鎖する誤解の海の底では、間違った僕と間違った君の 悲鳴も笑い声に聴こえた。 # by dayz0411 | 2010-11-09 21:32
2010年 10月 03日
![]() 高速道路は渋滞になりかけだった。 ぐるぐる回って光る観覧車。遠くに見えた。 高速道路は渋滞になりかけだった。 疲れていたしイライラしていた。 不機嫌な沈黙とラジオの音楽が 綱渡りみたいにバランスをとりあっていた。 テールランプがこっちに向かって、 順番に灯りはじめ、景色が流れるのをやめる。 観覧車のイルミネーションが見えた。 「またこんど」 それは約束だったはずなのに。 「またこんど」 僕は疲れていたし。 「またこんど」 イライラしていた。 今度って一体いつなんだって話なんだ。 それは確かに約束みたいに響いたんだ。 約束みたいに響いたくせにそれは 誰も本気にしない事実みたいに疲れた車内を漂った。 # by dayz0411 | 2010-10-03 18:47
2010年 10月 01日
この頃そこそこ充実してる人生の合間に合間に
遠いむかしの夢を見る。 年の離れた弟がまだ小さくて、僕は車の免許をとったばかり。 雪の降る夕方に白いバンを運転しながら、 僕は幸せな気分でいる。それは夢なので、自分がどうして そんな気分でいるのか、わからない。 家に着いた僕は、夜を待っている。 いつもよりも早く、母親が弟を風呂に入れる。 その隙に僕は白いバンの荷台からとても大きな 荷物を出す。陳腐なことにそれは、 白く大きなビニールに包まれ、赤いリボンで ぐるぐる巻きにされた、とても大きなクマだった。 裏の窓から誰の部屋でもない四畳半に クマを搬入すると、父親がそれを押し入れに隠した。 風呂からははしゃぐ声が聞こえてくるのだ。 家からこぼれる静かな明かりを逃がさぬように、 雪は夕暮れとともに青く光りはじめ、 明日の朝まで降り積もりながら 幸福以外のあらゆる音を全部とじこめた。 ようやく、僕は、自分がどうして幸せだったのかを知る。 実際にはそんな出来事は、無かった。 クマを買ったことも、はしゃぐ声が聞こえたことも、 その時期に、あそこにいた事すら無かった。 だから、ただの一度もそんな出来事は無かった。 なのに夢に見る。 眠っている僕には、それが、どうしても思い出に思える。 でも都会の夜中に、はっと目覚めると、それは夢なのだ。 夢の中の僕はその思い出を大事に思っているようだ。 けれど僕にはその思い出がないのだ。 ![]() # by dayz0411 | 2010-10-01 19:37
2010年 09月 02日
そしたら、 みやざきあおいがテレビで歌を歌っててな。 なるべくちいさな幸せと不幸せを なるべくたくさん・・・。 っていう歌。 昔あんなに聞いたのに、何の歌だか思い出せなくてな。 ブルーハーツっていったら、もうオレらの世代そのもの だったのにな。 この歌もな。死ぬほど流れてたよな。 何回も聞いてるはずなのにな。 でもこれは、一番好きな曲ではなかったんだ。 なんで不幸せも集めなきゃなんないのかなって 思ってたし、たぶんオレはでっかい幸せばっかりを 必死で探していたから、歌の意味が わかんなかったんだろうな。 人生は自分のものっていうけど、 自分だけのものじゃないんだなって気が付いた日。 自分の生き方がたくさんのひとを傷つけたって知ったんだ。 なんでオレはこんな事に気が付かなかったのかな。 人生なんてクソつまんなくってもいいんだ。 どんなにつまんなくてもいいんだ。 流れてたのにな。 こんなにいい歌が、オレの人生にも流れていたのにな。 この歌がたくさん流れていた時に、 君もオレも、どこかで、聞いていたはずなのにな。 # by dayz0411 | 2010-09-02 05:00
2010年 08月 27日
1Q84感想
最後は、大いなる未来に向けて月が沈んでいった。 読後。深夜二時。松屋で一人、牛皿定食を食べた。 2010 手をつないでいたはずの人はもういない。 何度も携帯電話を確認しながら食べた。 最近、待ちこがれるようになっていた、 ある女の子からのメールが途絶えて一週間。 彼女はふらっと僕の心に入って来て、 ふらっと出て行ったようだ。 またねもなし、さよならもなし。 すれ違うBook3。 運命の人と愛し合うのはこんなに大変なんだぜベイべー。 それは愛と勇気の物語。 でも、 全ての人が失ったものは果たして回復可能なんだろうか。 新しい方法と、新しい表現が必要なんじゃないだろうか。 三人称多元 なにより、使われている紙の質が素晴らしい。 こんなハードカバーは滅多に無いのだ。 ページは薄く、とても柔らかい。 だから本を開いたまま読める。 手で押さえなくても、勝手にページが閉じていったりしない。 こんなハードカバーは滅多に無い。 4000円した『アブサロム、アブサロム!』は 紙の硬さで勝手に閉じる。 そのことに気付いた誰かと、僕は会いたい。話をしたい。 2008年 09月 02日
最初は足首そして膝、やがて胸まで水に浸かる。 雨がこのまま降り続いたら確実に僕は沈む。 地球もまた閉じているのだ。この場所と同じく。 浮き輪にしがみついたまま水面と共に上昇し、 富士山を超えた時、僕は折角の大空を泳ぐハメになる。 浮き輪の空気を吸いつつ、最終的に宇宙にこぼれる。 革靴はぐっちゃぐちゃで歩くたび土踏まずの 横から水が溢れていた。全身が雨を吸って雑巾のようだ。 耳からも握った拳の中からも雨は溢れた。 腰の鈍痛、関節の痛み、特にこの膝、この両足の膝の軋み。 明らかな反逆だ。足のくせに歩く事を拒否してどうする。 オレの足のくせに。 路上の人々がみんな等しくこの雨に降られていた。 傘を、あるいは傘を握りしめる女性の細い尺骨を へし折る勢いだ。誰も彼もひどく濡れていた。 うなだれて髪の毛が顔の至る所に貼り付いていた。 しかしそれは何の慰めにもならず、水を吸った 洋服の重みも、雨と混ざった汗の滑りが、蒸し暑く わき腹をなで回す不快感も、それはどこまでいっても 個人的だ。傘も役に立たない雨の、人に対する平等さは 人が孤独である事の証明だと思う。 折れる傘、濡れる髪、布が肌に吸い付いて息が苦しい。 人もいる空もある雨も降っている。 僕は行かねばならない。時間はとっくに過ぎている。 びしょぬれで辿り着いてする事といえば安い愛想笑いだ。 けれども足をぶん殴り腰をぶん殴り前に進めと言う。 営々と続く時間によって築き上げられて来た景色。 全てそろっている。ビルも、傘も。身体の痛み、 歩く方向と目的地。ただひとつ僕の意志を除いて。 僕の向かう先に僕の意志はなく、両足の訴えに 我が意志は耳も貸さない。反逆にはただ狼狽し、 この空になす術も無い。永遠に降り続けるこの雨でさえも、 たぶん世界を沈めはしない。無数の水滴が足下に炸裂する。 せめて深い森に溶けてゆく雨だったらいいのに。 # by dayz0411 | 2008-09-02 05:39
2006年 06月 05日
「少年と少女と永遠と謎について」 前編
残念ながらぼくには、少女時代が無かった。なぜなら少年だったからだ。 当たり前だというなかれ。これはとても重大だ。 なぜなら少年という言葉は主に男子を指す場合が多いが、 時としてこの言葉は女子も含むからだ。と、いうことはつまり、 言葉上では女の子という生き物は、少年であり同時に少女でもある。 これはドラクエで言うところの賢者のようなものだ。魔法使いでもあり 僧侶でもある。攻撃系の呪文と回復系の呪文とを両方覚える。 一方男の子はヒャダルコを覚えてもザオリクは覚えない。 日本の人口で具体的に説明する為、便宜的に5歳から19歳までを少年と 仮定した場合、現在、男子944万人、女子898万人、合計して 約1,842万人、その全てが少年だが、少女はその内の898万人でしかない。 ぼくと同世代の30から35歳までを例にあげれば、 「あなたはかつて少年だったか?」の問いに、 「はい私はかつて少年でした。」と答えて正解なのがぼくを含めて およそ978万人。しかし、その内、 「あなたはかつて少女だったか?」の問いに、 「はい。」と答える事が出来るのは978万人中、483万人いる女性だけ。 その中にぼくは無論含まれない。ぼくを含む残り495万人の男にとって 少女は永遠に謎だ。 英語と対比させると少年少女を表す言葉は素晴らしく面白い。 恐らく英語にも、微妙な年頃を微妙に表現する言葉があるのだと思う。 しかし英和や和英の辞書にはそこまでは記載されていない。 対訳では男女や世代、年代を機能的に区別する事が最優先されるので、 心象風景や時代背景までをも包含する言葉のパワーまでは表しきれない。 少年少女男子女子青春乙女童貞処女エトセトラ。 ボーイズ&ガールズサンドーターキッズヴァージンエトセトラ。 とにかくありったけの少年少女用語をならべて厳密に集合を別けた、 オリジナルの対訳によれば、辞書にはボーイズに対応する日本語と、 少女に対応する英語が足りない。 辞書というものは自然に発生したものと違い、不自然な人工物だから 必要無いものは省かれている。またはその時々で必要に応じて意味は 後付けされる。なのでこれは偶然ではなく必然的に少年と少女は不完全 なのだ。環境は言葉に影響を与えるのだ。例えば野球場の有る無しや、 芝生の有る無しが、言葉の背後に浮かぶ風景を決めるのだから。 言葉の問題を追いかけると面白いが、このくらいにして話をもとに戻す。 ここで、面倒くさいのは「ロリータ・コンプレックス」が、 性犯罪の代名詞になってしまっている事だ。男が少女にどうして執着する のかを、これからぼくはだらだらと書くが(まあ結論は既に第一章で 書いちゃったようなもので答は永遠の謎だからなんだけども、その批判を) その際「性欲」も「犯罪」も、また別問題だという事を踏まえて読んで欲しい。 分かりやすく言うと、宮崎駿という映画監督はロリコンだが、 決して性犯罪者では無いという事を理解しておいてもらいたいのだ。 永遠の謎を解きたい欲望「ロリータ・コンプレックス」と「異常な性欲」は 相性が良くて、まるで覚醒剤と注射器みたいな関係だけど、別物だ。 突飛な話だと思われるかもしれないが、ぼくが前回からずっと書いている コレは、実は「博士の愛した数式」の読書感想文なのだ。 少女を中心的題材として扱って来た日本文学と、海外小説で描かれる少年と、 小川洋子の少年を比較し、歴史に埋もれた日本の少年にスポットを当てたのが 女性作家だった。と、いうだけの話なのだ。 ところが、キイワードの一つである、ロリータ・コンプレックスという言葉は 犯罪の匂いが立ち籠めているし、それを払拭しない事には、少女のという単語が 少年に対して重すぎ、書きたい文章がクリアにならない。 「博士の愛した数式」は少年時代の儚さと永遠性を描いていると思う。 そしてこれは日本の小説では特に珍しい。この小説を読んで思ったのは、 ここでいう「少年」が英語のヴァージン(には童貞が含まれる)に近いという事だ。 性的な葛藤が訪れる前の少年(少女含む)時代を描いたトム・ソーヤー的作品が、 日本にはそれほど多くない。(という話になる筈の最終章に続く) と、いう訳で話の流れ上、もうしばらく脱線は続く。 性犯罪と異常性欲については、詳しく知らない。だからどうして 少女を犯して殺してしまうような人間が、そこら中にいるのかは 理解出来ない。偽善者ぶるつもりはまったく無い。詳しく知らないので 理解出来ない。ただそれだけである。下手な予測はつまらないし、 ここで書きたいのは犯罪心理学じゃない。 常識と言うファンタジーについては、もう少し後で書きたいが、ぼくの場合、 今の所は常識の力をあまり働かせなくても性犯罪者にならずに済んでいる。 幸いな事に性欲はある。そしてもっと幸いな事にコントロールが効く。 それはたぶん、幸いな事だと思う。 「好き」という言葉も深読みすればなんとでも読めるので困るのだが、 少女が好きかと聞かれたら好きですと答える他ない。 勃起するかという質問ならば、しないと答えられるが、好きか嫌いかで いえば好きだ。もちろんをつけてもいい。 例えば、本当は「ロリータ・コンプレックス」だけじゃなくて、 ぼくはおっぱいについても五、六章書きたいくらい、おっぱいが好きだ。 ただ、ぼくの場合、知らない人のおっぱいは触らない。 恋人のおっぱいを本人の了解を取ってから触る事にしている。 彼女が機能的な下着ばかりつけるので不満だ。そして ぼくはヒラヒラのかわいいパンツが好きだ。でも盗んだりしない。 性犯罪の原因が何かは分からない。しかし性犯罪というからには、 おそらく性欲がらみで、性欲は大概の人が持っているものだから、 まず、一つには制御の問題だといえる。どうしてか制御不能になった 性欲という注射器に、これまた制御を失った性的嗜好が充填され、 最終的に行動を制御出来ない。性犯罪に至る出来心のプロセスを、 だいたいこんな程度の理屈で認識している。 あるいは初めから制御装置が無い人間もいるだろう。 するってえとここで出て来る問題は個人差だ。常識或いは良識の個人差。 次に性欲の個人差。そして性的嗜好の個人差。 もっとも面白いのは常識の個人差で、個人的にいえば、 そんな個人差は道徳的な正しさで断罪するのが一番だと思う。 ところがさっきの制御の問題が、それを許さないのだ。 だから本当の常識をぶった切るのは後回しにして、 現実に制御の範囲内にある欲望と、現在機能しているテレビ的常識を 相対化して、個人差の中から罪について考える手がかりを探す。 2006年 05月 27日
1「野球場」 W.P.キンセラが野球場について書いた文章を読むと、 テレビがいかに野球場という空間を再現出来ていないか、 よく解る。 スポーツノンフィクション「江夏の21球」で知られる、故、山際淳司の 書いた文章によれば、日本の野球中継で選手の顔のアップを 多用するようになった最初のきっかけは原辰徳だった。 選手の表情を大きく映すのが悪いとは思わないが、 投手のアップと打者のアップを切り替えて、その間を 野球で繋ぐような本末転倒の中継では、野球場の空間どころか ゲームの魅力をも損なってしまう。本当の野球場では 投手も打者も、単なる野球の一部でしかない。 ズームでは、そこから何かを切り取ることは出来ない。 野球はもともと退屈なゲームだ。そして退屈さこそが 野球の面白さだ。実際のプレーよりも間の方が多いのだから。 その“間”の積み重ねによってゲームは成立する。 ある小学生は札幌ドームの外野スタンドで、宿題の合間に新庄を 応援していた。新庄の打席が巡ってくるまでは宿題だ。 「ナンバー」に藤島大というライターが書いた文章で、 印象に残っているものがある。東京ドームで医学書を読みふける 女性をはじめ、スタンドにいる観客を中心にした話だ。 野球と言う退屈なゲームに呼び寄せられた人々の人生が 数時間だけ交差する。その日の松井秀喜も含めて。 彼女は本を読み、松井秀喜は打球をライトスタンドに運ぶ。 野球場という空間には自己が存在する。 時間制限のある退屈じゃないスポーツや、 ディズニーランドに必要な集中は、野球観戦とは無縁だ。 一見、どんなに熱狂的に応援しているように見えても、 決してゲームや選手が世界の中心にならない。 “間”が、陶酔の持続を許さないのだ。“間”は熱狂よりも 分析と批評を要求する。依存より自立を促す。 観客は選択しなければならない。ゲームに集中する時と それ以外の時にすべき事を自分で選ぶ自由が野球場にはある。 テレビで選手の表情を見ながら没入するような見方は 野球場では出来ない。同じ空間に松井秀喜と、自分が 同時に存在する事をとても意識するだろう。 彼は打つ人で、私は見る人だ。と、いうように。 野球選手と観客ではなく、どちらも人だというように。 テレビは、人生の中にまでは入って来ない。ナイター中継は 受動的な情報にすぎない。しかし野球場に一歩足を 踏み入れれば、そこで繰り広げられる全てが自分の人生の 一幕だという事を痛感する。 そこではホットドックもビールも、投手も、松井秀喜でさえ、 自分の人生の単なる一部に過ぎない。他の全ての娯楽と違って 野球のある夜は、特別な夜では無い。それは単なるありふれた夜だ。 そして全ては単なる野球の一部にすぎない。 だからこそ他のどんな場所よりも、野球場は特別な場所なのだ。 ※ ※ ※ 2「アメリカの芝、中国の土」 W.P.キンセラには野球場に忍び込んで人工芝を少しずつ 切り取り、そこに天然芝を植え付ける野球ファンの話がある。 「フィールド・オブ・ドリームス」の原作になった、 「シューレス・ジョー」の主人公は畑にまず“レフト”を作った。 丹念に芝生を手入れするくだり、完成したレフト・フィールドに シューレス・ジョーが現れる第一章でも、芝生哲学を読む事が出来る。 アメリカのボール・パークには芝生が何よりも重要だ。 住民運動によって、人工芝の野球場が天然の芝生に張り替えられた 例もある。一時期、アメリカの野球場も人工芝が主流になった事が ある。けれどそうした住民運動や、観客動員の減少で元に戻った。 アメリカの場合は、天然の芝生が観客を野球場に呼び戻した。 アメリカの小説やアメリカ映画をいくつか、読むなり 見るなりすれば、アメリカの物語に野球が果たしている役割の 重大性を確認出来る。その役割を果たすためには野球場が野球場で ならなければならない。芝生はだからこそ必要不可欠だった。 人工芝は手入れが簡単そうだし、ドームは天気の心配が無い。 そのかわり、芝生の匂いも土の匂いも無い。風と空が無い。 そしてそれらは野球場にはあったほうが断然いい。 何故あった方がいいのか、理由は追々説明したい。そして、 日本の野球場に本当の野球場がどうして無くなって行くのかも 追々説明したい。説明出来ればの話だが。 あるアメリカのドラマの登場人物のセリフで、 「理想の野球場を心に持っている。」という言葉を聞いた事がある。 理想の野球場を思い描くと、個人的には土のグラウンドを ぼくは思い出す。甲子園だ。甲子園の土は中国の土だ。 ある夏の日に、同級生が出かけて行って持って返って来た土が ぼくの実家にもある。目前で夢破れた者としては、 眺める度に複雑な気分になる不思議な土だ。 外野スタンド最上段の席で食べたカチワリの袋に入っている。 外野スタンドの最上段は鉄柵越しに浜風が吹き抜け、 多分夏の甲子園で最も涼しい席だ。そこでぼくは、母校が 長崎海星を破るのを眺め、二回戦でぼろ負けするところは、 三塁アルプスで眺めた。 テレビ朝日の「熱闘甲子園」では毎年、キャッチコピーが登場する。 個人的に一番気に入っているコピーは93年の 「わずか二時間数分だが球児たちには永遠に見えるという」だ。 同級生もたしか、似たようなことを言っていた。 甲子園の二時間は永遠のようで、そしてぼくが踏めなかった 甲子園の土はまるで、絨毯のようだったという。 2006年 05月 19日
とても長い一週間だった。
絶望的な気分で過ごした。人生が空回りする音が 頭でなり続け、茶碗を洗ってばかりいた。 おまけに松井は骨折るし。 ところで何が絶望的かって、今週は誰も知り合いが 死ななかったし、本は全部読みかけだし、 だから特記すべき事が何一つなくて、 出来上がったクリーニングには他人のトレーナーが 混ざっているし、よく見たらセーターが二枚も 行方不明だし、だいたい前からあのクリーニング屋の 散らかりようが気に食わなくて案の定と言えば 案の定で、仕上がり予定日から二日も過ぎて 受け取りに行ったのに、最初はまったく何も 仕上がっていなくて、翌日は全部そろわず、 翌々日は他人のトレーナーを返しがてら足りない ものを受け取ろうと思ったら未だに足りていなかったし、 店員はなるべく謝らない方向で会話をはぐらかす 答弁に終始し、予定日にぴったり取りに来るなんて せっかちすぎるとまでは言わなかったが どうもそんな事を言い出してもおかしくないような 勢いで、配送のトラックの渋滞には困っていて 品物が一度に沢山運ばれてくるのでチェックが とても追いつきませんなんて、お客であるこのぼくに 言われても。だったらぼくがやりましょうか?なんて 応えると思ったのだろうか。 何が絶望的かってこの界隈ではそのクリーニング屋が それでもマシな方だって事で、なんかそこに 子供が憧れない職業の虚しさがあるようで とても打ちのめされた。前に住んでた街の クリーニング屋は死ぬほど整理整頓が行き届いていて ほんのりいい匂いまでしていてあのころぼかあ しあわせだった。そこのクリーニング屋の奥さんて、 連続テレビ小説の主人公なんかにぴったりだなと思った。 おそらく売り上げはそれほど違わないだろうから 店の間に格差は生まれない。違いは中身で中身は つまりは人の差なんだけれど、それは能力の差とは とても思えない。第一、あのとっ散らかった 店の方が店員の数が多い。ああまったく職業選択の自由 なんてほとんどない。 サラ金が儲かるのもまったくもって当然だ。 2006年 05月 12日
少なくとも今の世界は報復を前提とした抑止力によって
維持されている訳で、核ミサイルは今日も準備万端だ。 お互いの頭に銃を突きつけたまま談笑し、 引き金に指をかけたままオリンピックを開催したり、 市場で取引したり、合コンしたり、 今日も世界は下着を盗んで捕まったりしている。 「目には目を」と言う言葉は復讐を肯定しているが、 その解釈には充分気をつけなければならない。 目をつぶされたら、相手の目をつぶしても良いが、 それ以上の復讐をしてはいけない。これが同害復讐の 一応のお約束だ。しかしこの同害復讐というやつは、 まるで相対論のように、シンプルでありながら難解な理論だ。 小学校の全体集会で、ぼくはうっかりエミちゃんの足を 踏み、ゴメンと謝ったのに踏み返された。 その時彼女は言ったのだ。 家では「やられたらやり返せ」と教わっていると。 あれから二十年以上過ぎても、その時の絶望感が拭えないで いるのだから、ぼくはよほどの衝撃を味わったのだ。 まず、過失に対して故意で返って来たと言う絶対的不条理。 そして宙に浮く形になった一つの謝罪。 謝罪の痛みと足の痛みでは、ぼくの痛みが一コ多い。 これは不等式にしかならないとぼくは思った。 彼女は理論のシンプルな部分を拡大解釈し、真理に到達する前に それを盲信している。彼女がオッペンハイマーなら、 ぼくはE=mc2の気分だ。 2006年 05月 04日
アサヒ芸能かなんかで「ちょ〜悪オヤジ」を特集していて笑った。
前科二犯だもの筋金入りで超悪い。 ぼくは結構新しい言葉が好きだ。萌えもツンデレも好きだ。 インテリジェンスがあると思う。 しかしちょい悪オヤジは何のこっちゃと思う。 センスが感じられない。大人の男の目指すのがこれか と思ってがっかりする。 「微妙」にヤンエグ(バブル期に流行った)に感じた 何のこっちゃと似ている。なんとなく受け入れられ 一般的に流通している世の中なんていっそ滅べばいいのに なんて思う。 ちょい悪と言うからにはちょい悪いのだ。ぽいのである。 ちょいと言うからには少しなのだ。ちょっと悪いのだ。 じゃあ悪って何だって事になる。訳が分からない。 林に打ち込んだ第二打を内緒でフェアグラウンドに移動 させるおっさんはちょい悪の範疇に入るんだろうか。 ナイフを忍ばせて歩いているおっさんは悪としてはどのへん なんだろう。 まあそんなレトリックはどうでもいいけど、 ファッションってもっともっと真剣なものだと思う。 2006年 04月 25日
i pod付属のCD-ROMでパソコンのi tunesをアップデートしたら
劇的に進化した。だいぶ古いバージョンを使っていたようだ。 CDの曲のタイトルが全部読み込めるなんてえらいぞi tunes6。 散らかったままの音楽ライブラリをそのままコピーしたので、 この一ヶ月、i podから曲を探すのが結構大変だった。 なんせ1000曲以上入っているから、アーティスト名やジャンルや カテゴリをきちんと整理していないと辛い。 A面10曲、B面10曲、一番好きな曲を両面の最初にダビング。 カセットテープはアクシアかTDKのハイポジがいいとか悪いとか。 レーベル作りが面倒なくせに同じメーカーの同じカセットテープに こだわったのが仇となり、聴きたいテープをしょっちゅう見失った あのころと結局何も変わっていなかった。 i podを使い始めてから一ヶ月、pod castという表示に、 コレはなんだろうなと思っていた。 使ってみたら面白かった。ラジオ番組や映像をダウンロード して楽しめるpod cast。ブログの映像、音声版みたいなもので、 企業、個人問わずコンテンツが増殖中。 pod castを選んでi tunesに登録しておくと、自動的に送られてくる。 例えばちょっとニュースになった東大のpod cast。 小柴昌俊博士の講義が全4回配信される予定で、現在第二回まで配信済みだ。 それを選んでi tunesに登録しておくと、残り二回も自動的に ダウンロードされてくる。ビデオ対応のi podにつなげば、 持ち出せる。 itune music storeにアクセスすると、pod castコンテンツが 無料でダウンロードできる。なんかすごい。 いくつか見たり聞いたりしてみた。内容よりも探して集める作業 のほうに、なんかアツくなった。 2006年 04月 21日
マンガ喫茶の緩い空気は友達の部屋に良く似ていて
とても居心地がいい。お菓子とジュースとマンガがあって、 その気になればゲームも出来る。 大体俺と同世代は係長くらいだな、なんて少し後ろめたい 思いを感じつつノルマと上司と部下と奥さんに 板挟みにされている自分を想像してみる。 当然だがマンガ喫茶に友達はいない。 友達の部屋と言うのはだいたいヒマだった。 ヒマでヒマでどうしようもなかった。 当時はそれほど当たり前だったのだ。 友達と一緒にいる事が。 年に数回しか会えなくなると、友達と会う事が ただの暇つぶしでは無くなる。昔は友達の部屋で、 会話もせずマンガを読んでいたのだ。 昔は当たり前だった時間が、どんどん貴重な 時間になって来た。 忙しいと退屈な時間が貴重になって、 退屈も退屈じゃなくなる。忙しさに慣れてしまえば 当たり前の忙しさに退屈を感じるのかもしれない。 いつ頃からだろうか。ぼくは退屈を苦にしなくなった。 というか、ここ何年か退屈だと感じた事があったかどうか 思い出せない。かといって忙しくもない。 時間のバランスがとれているのかもしれないし、 なにかずっと焦っているのかもしれない。 退屈は人を殺すと言うから、殺されてしまった のかもしれない。
< 前のページ 次のページ >
|
カテゴリ
お気に入りブログ
Others
最新のコメント
以前の記事
2011年 12月
2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2008年 09月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 08月 ライフログ
by cloudica
鳥の唄は泣けます
検索
最新のトラックバック
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
















